Homeへ戻る



  残したい上原の歴史やなつかしい風景

大自然と共に<自然保護活動

松茸山を育てる会

 平成19年度 大垣市里山プログラム「松茸山の管理と造成プロジェクト」の中で、元県立森林文化アカデミーの田端英雄先生、同アカデミーの津田格先生の指導のもと、上原地区の荒れた松茸山の再生に取り組みました。現在は上原区有志による「松茸山を育てる会」に作業が引き継がれている。
 松茸は適度の雨量や気温など、天候によって収穫量は大きく左右されるが、年々松茸にとっての環境(気候温暖化や松枯れ)も悪くなって来ている。会の活動は少しでも長く上原の松茸山を守り、育てて行くために樹木の伐採や不要な枝の除去、適正な清掃など、継続した山の手入れが怠れない。
 
松茸山を育てる会の皆さん、初松茸を前に撮影。 2015.09.28

文化・芸術

NAO工房 and Mountain Time Festival

 NAO工房はブルーグラス愛好者向けの通称フラットマンドリンの製作者、安川直樹の工房である。安川さんはフラットマンドリン製作の国内における第一人者であり、近年はギター製作も手がけている。1986年に上石津町に住まいを移し、現在は上原地区に工房を構えてマンドリン製作や演奏を通した、まちおこし活動、製作技術の後進指導にあたっている。 また、安川さんらは、1975年(S50)からブルーグラスフェスティバルを東海地区各地で開催し、1986年(S61)から時山のバンガロー(マウンテン・タイムフェスティバル)で開催していたが、2010年から会場を多治見市に移し、現在も精力的に活動している。この様に忙しい安川さんではあるが上原区の村役などの地域行事には一緒に加わり汗を流す。

 
NAO Mandolins & Guitars

浄徳寺花講

 浄徳寺花講は、主に浄徳寺門徒の有志により構成され、長い歴史と伝統がある「お花立て」の集まりである。浄土真宗では佛花は阿弥陀仏の慈悲を表わすものといわれ、大切な行の一つである。現在、花講の活動は代表の吉田好男さんを中心に三名の講員で年三回、春の永代経と秋の報恩講、元旦修正会の立華を立てている。お花の基本形は池坊流を基にし、材料は地元の松やマキ、モミ等を使い素朴で品のある、且つその中にも大自然の力強さを感じさせる作品に毎回仕上げている。また、明治からの伝統を引き継ぎつつ、毎回テーマを決めて、新しい材料や花の立て方への挑戦も忘れていない。しかし、講員の高齢化や世間全般の宗教離れにより、年々人数が減少しており、メンバーを増やすことが当面の課題である。花立ては上原浄徳寺の南側の花部屋で年三回作業をしている。予定日はこのURLで見られ見学は自由である。 浄徳寺花講ホームページ
 

吉田好男作  「松一式」 立花
仏花展 2011年11月 東本願寺総会所於
 


歴史 名所・旧跡(寺院・神社) 地域産業

真宗大谷派
聖嶽山 浄徳寺
Shougakuzan Jyoutoku-ji Temple

 藤原時代、猿海道(現在の地域事務所付近)に天台宗として創建。1464年浄土真宗となる。1564年高さ3mの石垣を二重三重に廻らし、七間四面のお御度堂、三つの門造営。その後、織田信長配下占拠し、本陣を置き焼失。1596年に地震、大雨にて倒壊。現在地に移転し、旗本東高木家初代が菩提寺とする。

岐阜県大垣市上石津町上原360番地
住職 日野恵亮
☎ 0584-45-2162  
Home Page http://jyoutokuji.uwahara.com/


 

十一面観音菩薩坐像 

 上原浄徳寺の十一面観音菩薩坐像は高さが56.5cm、寄木造彫眼(ちょうがん)像で、優美なその様式から藤原時代の作と推定される。浄徳寺の元は、天台宗横川首楞厳院(しゅりょうごんいん)の末寺で「多羅山無染院清浄福徳寺」と言い、猿海道にあった。七堂伽藍(がらん)を備える大寺院であったが、大地震と大雨による水害で伽藍や古記録をすべて失い、この十一面観音菩薩坐像と一部の石仏だけが残った。1973年(昭和48年)11月に大垣市重要文化財(彫刻の部)の指定を受けて、現在でも大切に守り続けられている。


(彫眼像) 眼を彫り出した像。
(伽藍) 僧侶が集まり修行する清浄な場所。

 

上原神社 

 火災防禦(ぼうぎょ)のため慶応3年に創建され、昭和7年9月1日 旧九神・御鍬神各社を合併し移転、上原神社と称した。神社運営、祭事の世話は上原区の住民代表が行う。(北、南、中、東組の輪番制) 毎年、豊作を祝う秋祭りが10月の第2週の土曜・日曜に行われる。

大神神社について 西脇宮司資料


 

上原・栗田家の澁無榧(シブナシカヤ)  

 栗田頼男さん宅の屋敷内に、推定樹齢250年のカヤの古木がある。幹の周囲1.8メートル、樹高約10メートル、枝は四方に約15メートルに渡って広がり、今でも秋には多くの実を付ける。このカヤの実はシブが無い珍しい品種で、煎った実は殻を割ってそのまま食べることができる。香ばしい素朴な味がする。先々代の栗田忠三郎さんは、明治10年に東京上野で開催された、第1回内国勧業博覧会に、このシブナシカヤを出品して、実の品質が高く評価された。その時の賞状(褒状)は栗田家に大切に保管されており、当時の明治政府の内務卿従三位(総裁)大久保利通から授与されたものである。
*参考: 国会図書館デジタルライブラリ(コマ番号213)



養老山頂・上原牧場

 1934年(昭和9年)、大洞山有志十数名から成る上原牧野組合が、養老山頂付近の大洞に約60町歩の放牧地を作り、約50頭の牛を放牧していた。当時、政府の軍馬の生産と飼育を普及促進する牧野(ぼくや)政策(1931年の牧野法制定)に、牛も加えられた事が背景にある。伊藤正美さん(昭和2年生まれ)の子供の頃の話として、「上原牧場には湧水を貯めた水飲み場や牛小屋があり、牧場はワイヤーを張った柵で囲われ、入口にはハシゴが掛けてあった。牛の世話は当番制で牛の状態を毎日見に行った。頂上付近に群生する笹が主たる餌であったが、塩をやるのも大事な仕事だった。数人の子供だけで塩をやるために山道を走って行ったこともある。育った牛は養老側から降ろして出荷し、新たに子牛を買い、同じく養老側から急な道を引き上げた。」と語る。 大洞関係者の夢とロマンが詰まった上原牧場であったが、次第に戦争が暗い影を落とし、10年程で閉鎖になった。 




 上原牧場
 出典:上石津町史 3節 325ページ

上之段場の稚蚕共同飼育所

 昭和30年代、養蚕は合成繊維に押されて需要は低下していたが、昭和40年代に入り、急激な経済成長に伴い高級生地としての繭(まゆ)の需要が増加して、養蚕を基盤とする大規模な桑園を新たに造成し、共同経営が行われる様になった。昭和46年に振興山林農林漁業特別開発事業として、上原の上之段場(通称うえんだま)に稚蚕共同飼育所が建設された。同飼育所は年間800箱の飼育能力があり、孵化(ふか)したばかりの毛蚕(けご)から三齢期まで飼育して、以後は多良地区の養蚕農家に分配された。農家では5齢 熟蚕(じゅくさん)まで育て、繭を出荷していた。当時、養蚕は数少ない現金収入が得られる副業として、上原区でも十数戸が携わっていた。しかし、平成に入り養蚕従事者の高齢化や繭の価格低下により、養蚕農家の戸数が減少し、平成12年に共同飼育所は閉鎖された。
 



 上之段場を造成して桑の木が植えられた。


スポーツ、娯楽、グループ

上原モンキーズ 

 上原モンキーズは1970年(昭和45年)に設立、上原区在住の十数名のメンバーで構成した軟式野球チームである。前身は有志でスタートしたソフトボールチームであったが、上石津町の軟式野球ナイターリーグが始まり、軟式野球にも試合参戦した。監督は現自治会長の三輪悦二さん、上石津町のナイターリーグでは、常に上位に食い込む成績を残しました。しかし、選手の不足等で1982年(昭和57年)に活動を休止しています。


 1977年(S52)5月、町大会で準優勝した時の写真、
 (坂口久雄さん提供)
 ↑ クリックで拡大

上原みこしプロジェクト 

 1992年(H4年)11月、町の産業の発展と福祉の充実を見据えて開催された「福祉インかみいしづ’92」のみこしコンテストで上原チームが見事優賞した。大きな鯛ときんさん、ぎんさんをベースに製作し、健康と生きがいが持てる地域社会をアピールした。きんさん、ぎんさんの頭はリアルに左右に動く仕掛けや、鯛のうろこは一枚一枚が手作りして貼り付ける、細かい作業が施されていた。製作は三輪建設の木小屋に毎夜十数名のメンバーが集まり遅くまで行われた。その結果、メンバー全員のこだわりと技を結集した完成度の高い作品に仕上がった。なお、コンテストの優賞賞金は全額、福祉関係団体に寄付された。
 出典:1992年12月号、広報かみいしづの表紙。


上原チーム「福ちゃん」みこし 皆さん若い!

 Copyright (C) 2014 Uwahara Residents Association All Rights Reserved.