残したい上原の歴史や風景 I  2015.08.12

戦後七十年目に想う    入口庄一

今年は戦後七十年節目の年、大半の人は戦争を知らない世代です。今月は実際に戦争を経験された、入口庄一さんにお話をお伺いしました。

昭和十六年十七歳の時に志願して、山口県岩国市、大竹海兵団に入団し、三ケ月間の新兵教育を受けた。その時の訓練は厳しいものがあり、上官の命令はその事の如何に関わらず、直ちに服従しなければならなかった。朝六時起床、夜九時まで訓練づけ、九時以降は上官の靴磨きや洗濯をやり、睡眠時間は実質三時間程度であった。班のメンバーの一人に不手際があると、夜中でも全員がたたき起こされ「軍人精神注入棒」と書かれた樫の木の棒で、尻が紫色に腫れ上がるまで、殴られる事がしばしばあった。しつけ教育の名目であったと思われるが、一番辛い期間であった。その後、航空母艦「瑞鶴(ずいかく)」に乗船した。持ち場は 敵戦闘機を撃ち落とす、二連式放射砲であった。瑞鶴は戦艦大和などを含む連合艦隊に属し、北はアリューシャンから南方の海洋やインド洋まで、広い海域を移動した。楽しい想い出として、南の島で停泊した際に、島の住民と煙草と交換したマンゴウの味が忘れられない。乗船後は新兵教育の時の様な体罰は無かったが、戦場最前線で一時も気は緩められなかった。昭和十九年に入り戦局は厳しくなり、昭和十九年六月二十六日、マリアナ沖海戦(アメリカ海軍空母機動部隊の海戦)で瑞鶴も大きなダメージを受け、ニ千人乗員の内、約八百人が死傷した。自分もその時に全身の大やけどと、背中の傷、右足を負傷した。この海戦で負傷者と死者を空母の甲板で分けられ、自分は死者の中に入れられていたが、無意識に腕を動かし「うぅ〜」と声を出し、近くにいた戦友がそれに気づき、九死に一生を得た。幸い瑞鶴は魚雷の難は逃れ、航行可能であったため、呉にもどり、病院で終戦を迎えた。終戦後、上原に戻り、一度助けられた命、亡くなった戦友のためにと思い、懸命に働いてきた。炭焼も山仕事も不自由な身体を押してやった。最後に、志願して入団した頃は年齢も若く、戦争への志は高かった。しかし、七十年目の節目として、「戦争は絶対にやってはいけない、全ての者を不幸にする。」と強い口調で語った。

入口庄一さんは町議会議員四期、上原区長四年、平成元年からは岐阜県傷痍軍人会長、日本傷痍軍人会理事や対策委員長を歴任されました。在任中は全国を飛び回り、傷痍軍人会が解散した、平成二十五年まで傷痍軍人の厚生に尽力されました。

 入口さんは今年の9月で91歳(大正13年生)、まだまだお元気です。