残したい上原の歴史や風景 R 2017.05.13

大洞山(おおほらやま)

大洞山は、養老山地の笙ヶ岳西側中腹から、山頂までの約770町歩に及ぶ「共同私有地」である。「入会地・村山」は他の地域で多く見られるが、共同私有地の仕組みを取り入れている地区は珍しい。
大洞山の構成は、壱番地(別所組)、弐番地(高木組)、三番地(天領組)、四番地(青木組)の4グループに大きく分かれ、約80名が加入している。設立された時期は明治中期(明治33年)、上原地区の住人や上原出身者らが大洞山を共同購入した。当時の山林は、新炭や用材製品、肥料用の落葉・草など、農業や生活に必要な資源を生み出す重要な場所であった。大洞山からの収入は、山の面積の持ち分に応じて配当金が支払われ、年の暮れに山元の家に集まって来年の山の入札を行った後、配当金を貰うのが当時としては楽しみだったようだ。
昭和38年に、大洞山の開発を進める為に、大がかりな林道事業に着手した。岐阜県の整備事業の補助金に加え、養老山頂付近の土地、約100町歩の売却益を工事費用に充てた。5年の歳月を掛けて、昭和41年に林道が開通。それに伴い移動時間の短縮や、大量の木材や資材運搬が可能になった。昭和62年からは採石業者も事業を開始。上原地区はおおいに潤った。しかし、木材の需要低下に伴う林業の衰退、高齢化による炭焼きの担い手の減少で山の荒廃が進み、最近は作業で山に入る人はほとんどいなくなった。
現在進めている「松茸山を育てる会」活動や、ハイキングコースの整備など、自然保護も踏まえて、林道の有効活用による大洞山の復活が、今後の大きな課題である。


昭和47年松野幸泰書の「大洞林道碑」。大洞林道は先人たちのご苦労や尊い命の犠牲の上にある事を認識し、活用を考えたいものです。



残したい上原の歴史や風景 S 2017.07.04 Draft

おいど

 1班 桑原寛明さん宅東側斜面は「おいど」と言われ、水道が普及する昭和40年代までは豊富な湧き水があり、生活用水として食事の準備や洗い物のために必要不可欠な水源として大切にされてきました。皆が集まると自然に世間話しになり、大切な情報交換やコミュニティーの場でもありました。湧き水は上流から「飲み水」「お米や野菜洗い」「洗濯物」のように段階的に使い方が決められたいたようです。最近では海道の耕作の減少や自然環境変化で水量は減ってしまいましたが、石で作った升目状の区切りは今でも見られます。夏場に冷たい湧き水で冷やしたスイカや飲み物をいただくのも楽しみのひとつだったようです。5班伊藤信子さん(92)からお話をお伺いしました。