三輪三人衆と浄徳寺

時・多良には中世末期、三輪三人衆(豊前・佐渡・筑後)と称された領主がいて支配し、その元に21人の名頭がおりました。この21人が、政治向きの事は城山前の辻堂に、仏事・神事向きのことは禰宜(ねぎ)村の念仏堂に寄り合って何事も相談の上決めていました。三人衆は仏法を深く信仰し上原に浄徳寺を建立し、仏像名号を寄進しました。また、堂場を取り立て、貧しい人に衣食を施し、鳥類虫類をあわれみ、時多良と共に三輪の行く末長く続けと願っていました。しかし、織田信長の計略によって討たれてしまいました。(詳しくは25号「風呂の井戸」で紹介)三輪の屋敷に押し入った丹羽金吾を大将とする兵は、屋敷の家財を残らず壊し、上原に入り稲荷堂まで打ち壊し、浄徳寺で酒食を調え休憩しました。その時に、丹羽金吾は「この門は田舎に似ず立派である。山中よりの土産にする」と、山門を解体して大垣へ持ち帰ったといい伝わっています。三人衆が切腹の後、百姓の代表が辻堂に集まり寄り合いをしているところに、三人衆の奥方と若様姫君がこられ、今までの皆の厚情に感謝を述べ、三殿の辞世の短冊を見せられました。

身輪行けど残る輪人にかた見なり
いづれにきに輪破られはせぬ
三輪筑後
名残とて露も結ばぬ前ぞかし
ちりては花も色のなきもの
三輪豊前
何をかも形見とやせん此の里の 
思うぞ名残りなき後の人
三輪佐渡
「この三首をこの世の名残りとして吾亡き形見と思って下さい。其の上で、苗字のない人々は三輪を名乗りたまえ」と言われたそうです。
多良に三輪の苗字が多いのはその関係でしょうか。


以上 上石津町資料より